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我が最良の師
 十年間連れ添った、Croi(クロワ)が、変調をきたしてから五日目の朝死んだ。死因は疝痛だ。簡単に言えば、腸詰まりである。今まで何頭かの馬が疝痛で亡くなるのを見てきたが、まさか自分の馬がこんなにあっけなく逝ってしまうとは・・・。



 Croiとは私の馬の愛称である。The AMERICAN QUARTER HORSE ASSOCIATION(アメリカ クォーターホース協会)に登録されている正式名は、WAMPY LEO(ワンピー レオ)。父はDOC LEO LEN.母はMISS WAMPY BARS.血統書によると、父母、祖父母4頭、曾祖父母8頭の名前まではっきりと記されている。米国中南部の州アーカンソーの生まれだ。皆からはレオ、LEOと呼ばれていたが、私は密かにクロワと読んでいた。彼は血統書にはCOLORがBROWNと記されているけれど、見た目には黒に見える馬だった。眉間にある模様を流星と言うが、彼はその流星がはっきりと三日月模様であった。それがクロワッサン(Croissant)のようなので、クロワ、日本語の黒(クロ)とかけて、そう読んでいたのだ。

 WANPY LEOがアメリカから日本に来て暫らくして、この乗馬クラブのK社長より話があった。

「今井さん、馬買わねえか?」
「えー?どの馬?」

 その当時、乗馬を始めて二十三年位経っていた私は、いずれ馬を持つのが夢であった。しかし、自馬会員になってクラブに馬を預けるのではなく、自宅の隣りに厩舎を持ち、毎日自分の馬と出会い、会話し、手入れし、散歩のように騎乗する。そんな夢を見ていたときである。

「買ってよ、今井さんしか乗れねえよ。」

その言葉が私をくすぐった。厩舎に言ってみるとその馬一頭だけがこちらに尻を向けて立っていた。馬は有史依頼、人間に近づいて来た数少ない動物の一つである。人間の一挙手一投足に興味を持ち、ほとんどの時間、馬房から外に顔を出していることが多い。この馬だけは人間不信に陥っているように見えた。

「どうして?」

社長に聞いてみた。

「アメリカでは小さい子供が乗っかってたんだよ。決して激しい動きをしない馬だったから、イクイテーションとかショーホース、トレイルホースにいいと思ってヨー」
「そうか、だからだ!」

Leoはかなり人間的感覚を持っている馬だ。アメリカで信じていた人々から手放されたことがかなりのショックだったのだろう。そして何時間かの航空輸送、何日かの検疫、見知らぬ初めての土地、聞き慣れない言語、加えて、はじめてみる砂浜と海。

{アメリカデ、アレダケヒトトナカヨクシテイタノニ、ドウシテステラレタノダロウ}

かなりショックのようだ。

「分かった、買う。」

 どうも、物分りのいい男のようだ、私は。
 当時、頼まれて四つの会社の顧問をしていた私は、本職以外に過分な顧問料を頂いていた。

「そうだ!そのお金を、アメリカから来た人間不信に陥っている馬に使おう」

大義名分は整った。



 それから毎週、私はどのようにこの馬と付き合おうか考えた。まず、信頼関係を築き上げる為に、相互の理解を深めることにした。聴覚、視覚、触覚、嗅覚、全ての感覚を使って私を理解してもらおうと努めた。

聴覚では、少しでも安心するように英語で話しかけた。私のみが違う言葉を発することで、他の人と違うことをアピールする目的もあった。

「Good boy!」やさしく語りかけた。

視覚では、彼が六歳で私に初めて会ったときから六ヶ月は毎週、同じ色のキャップと同じ色のシャツを着てクラブに通った。私の髭(くちひげ)、髯(ほうひげ)、鬚(あごひげ)、の長さも同じに整えて。

触角では、彼の体を触りまくった。その時、彼がものを要求するのに、あまりにも前足をストレートに前に出すので、危険だと思い「Shake hand!」と言いながら、何度も前足を曲げて上にあげさせた。アーカンソー州では食べたことの無かった人参が効力を発揮した。二ヶ月もしないうちに、人参が無くても、言葉とこちらが足元に手を差し出す行為によって、お手をするようになった。日本語で「ちょうだい」と言ってもするようになった。彼が初めて覚えた日本語かもしれない。触覚で大切なのは騎座である。彼の背中を通じて私の体重と騎座が、重い、軽い、上手、下手にかかわらず私の存在をアピールした。後に彼から色々なことを教えてもらい、騎座の使い方も上手になっていくのだが。

 そして嗅覚、まず、出会った時に手の甲を差し出し匂いを嗅がせる。キャップをとり、その匂いも。そして「ちょうだい!」と言うと、鼻をヒクヒクさせて、お手をする。彼は早くも私の存在を理解した。

{ヘンナ、ニホンジン!}とだったのかも知れないけれど。



 一年目、Croiは、かなり、周りの自然環境、社会環境にも馴れてきた。初めは波が来る度に逃げていた海も、顔を海面まで持っていき、口でクチュクチュと塩水をなめて遊ぶようになった。南部なまりの英語を聞いて育った彼も、千葉の成東弁にも慣れ、

「あらよー」
「やるっぺよー」

にも、すまし顔である。彼は一年目にして環境や私についてかなりの理解をし、順応していった。

 私も少しずつではあるが、彼を理解し始めていた。

 ・ 顔を触らせないのは、過去にいやな経験をしていること。

 ・ 隣に長い草があっても、短い草を好んで食べるのは、育っ   た土地がそうであったから。

  冬、どの馬よりも早く冬毛が生えるのと、鼻水を垂らして    いるのは、南部生まれだから。寒がりな馬である。

  ボロ(糞)や尿を決まった所でするのは、臆病で神経質で    あるから。(Croiの場合は海に入って水洗するか、つなぎ  場か、自分の厩舎の中がほとんど)

等々。

 只、何年間も理解してあげられなくて、何度も謝った、今思い出しても申し分けなく思うことがある。



 日本に来て三年頃か、よく跛行するようになった。前脚だ。週末に会いに行くと厩舎で寝ていることが多くなった。首の周りが張っている。

 医者に相談すると、笹針が効くということで、治療してもらった。悪い血を抜くんだそうだ。術後の彼は首の方々から血を流し、

{ナニヲサレタンダロウ?}

という顔をしていた。

「これで元気になるんだぞ!よく頑張った!」

 彼は何か訴えようとしているのか、甘えようとしているのか、顔を摺り寄せてきた。

 実際に少しよくなったように思えた。が、しかしまた跛行するようになった。少し元気になるが、また跛行する。アメリカから来たトレーナーや、少年時代からポロ競技をやっていた、オーストラリアの友人にも見てもらった。薬を塗ったり貼ったりしたけど、いい結果は得られなくて二、三年経った。

 そんなある日、厩舎で彼の行為を何気なく見ていてハタ!と気が付いた。今まで悩んでいたこと、観察してわかったことがひとつに繋がった。彼の前脚は厩舎の入り口の少し斜めに坂になっているところに置く時、辛そうだ。そして後ろに下がる。私が呼ぶと近づいてきて坂を避け、それより前の平らな部分に両前脚を乗せるのだ。

「そうか!分った! 悪かった!」
「取り返しがつかない、なんていう飼い主だ」
「ひとつも、理解して上げてないじゃないか!」

 すぐに蹄鉄をはずし、爪の前部を必死で削った。申し訳なくて、身体が震えた。


 爪の角度が間違っていたのだ。

このことで、誰も責めるつもりは無い。みんな一生懸命考えてくれて、一生懸命やってくれた。悔しいのは、私が彼の理解者になれなかったことだ。

 爪の角度がどれだけ大切なものかよく分った。普通ならば、今までどうりでいい。いや、かえってその様にする事で前脚の出がよくなり、筋力も付き、美しい前脚の運びとなるのだ。

 ところが、Croiは違っていた。血統書から推察するに、アメリカではカッター・ホースの調教がなされていたのだろう。そして何歳の頃か、左前脚の筋を損傷したのだろう。それで、傷を治した後は、おとなしい乗馬用にされたと思われる。日本に来た時にはすでに左前脚に大きな傷跡があった。だから、彼には古傷を痛めるような爪の角度ではいけなかったのだ。日本に来て、私の持ち馬になった時に撮った写真を見てみるとやっぱり爪が今より立っている。

 装蹄師に連絡して角度を変えるようにお願いした。装蹄師は理解してくれ、間にゴムのパットも入れてくれた。次の週から、見違えるように良くなってきた。

 もし、蹄鉄をつけなければ、自然に馬の好む角度になるのだろう。人が乗る為に鉄を履かされた馬は、自分で削るわけには行かない。人間が決めてくれた角度の爪で、歩き、走らなくてはならない。

 『装蹄とは大変なことなのだ。』

 そんな状態でも、元気だった彼を連れて二年目と三年目の夏には、北海道へ行ったり、馬運車で那須にキャンプに行ったりした。彼も旅は好きなようで、行っている時も、帰ってからも元気になっていた。

 一年目の頃、外乗で遠出すると必ず鳴いていたCroiも四年目位になると九十九里の外乗のベテランになり、リーダー的存在になっていた。何頭もの馬の、先導を努めた。

蓮沼海岸への半日外乗、正月の九十九里浜初日の出外乗、午後から三時間駒形神社外乗は恒例の行事となった。彼と私の信頼関係もかなり出来上がってきた。



私は、以前からの自説であるが、馬との信頼と理解関係が出来れば、言葉で乗馬が出来ると考えていた。もちろんその為には確実な騎座、脚、手綱、でなくてはならない。そして、それがむずかしいのであるが。  馬を観察していると分かるが、彼らは蝿一匹でも身体をピクピクと動かす。そんなに敏感な馬なのに何故、蹴飛ばしたりしなくてはいけないのだろう。一馬力というのは、すごい力である。  そんなに力があり脚の速い馬が、人間に近づき、背中に鞍を乗せ、口にハミをつけ、手綱をとらせ、人を乗せるのである。

『それだけで、すごい事なのだ。』

乗馬を始めた頃はよく馬に文句を言っていた。

「この馬は、お腹が空いていて、草ばかり食べていて駄目だ」とか、「走らないと思ったら急に走ったり、走ったと思ったら急に止まったり、いい加減な性格の馬だ」とか、悪いのは馬のせいにしていた。草を食べるのも、走るのも、止まるのも、乗っている自分のせいなのに。

馬を始めて三十三年になった今になると、おかしな行動を馬がすると「申し訳ない!」と思うようになる。Croiは時々、私の乗り方にダメだしをする。その都度お伺いをたて、お互いを理解し合う。騎座、脚、手綱、そして言葉をチェックする。

 Croiと私の師弟関係もかなり深まってきた。(もちろん、Croiが師で、私が弟子である) 師匠との間に様々なルールを構築していった。



 八年目の頃、外乗もよく師弟で行くことが多かった。その頃になると、ほんの少しの言葉と合図で動いた。私が走ろうかと思うと彼は走り、止まろうと思うと止まった。花の甘さと香りが気に入ったのだろうか、赤ツメ草と白ツメ草が好きだった。それらが生えている場所では約束のように止まり、休んだ。

 その日も言葉を交わしながら、クラブの近くの砂防丘に登った。そして下を見て、今まで一度も降りたことのない場所だったけれど、私が降りようと思った時、彼も、何の疑いもなく飛び降りた。その時だ。

「あっ、イカン!」

 そこは夏にしっかりと蔓薔薇の自生している場所だった。彼の前脚は完全に蔓にスタックしてしまった。そこからは、スローモーションになる。彼の頭は下になり前転を始める。私は左前に飛び込むようにして落ちる。一回転したCroiの左前脚が上を向いた私の顔を避けて跳び越す。そして右脚が私の腹に来る。思わずその脚をつかんで、わき腹の横に導く。「このあとに後脚が!」と思った瞬間、彼が思い切り後脚を縮めて飛び越した。蹄が少しだけ額をかすめる。

「助かった!」

 途端に力が抜けて仰向けになる。

「Croiは大丈夫か?」と思って振り向くと、彼は私のところまで戻ってきて、鼻先でブルブルして、

{ダイジョウブカ?}

と言わんばかりに、私の心配をしてくれる。私も立ち上がり、お互いの無事をチェックする。そして、お互いに無謀を恥じる。

 少し額が痛かったけれど、嬉しかった。普通、こんな驚くようなことがあった時、馬は厩舎へ逃げ帰ってしまうものだ。まして厩舎の近くなら尚のことだ。

 かなり大きな音だったようでクラブの会員が、

「大丈夫ですか?」

と駆けつけてくれた。

「大丈夫、大丈夫」

 彼と私は恥じ入るように下を向いて、身体に付いた枯れ草や土を落としていた。いたずら仲間になった様で、嬉しくて、嬉しくて仕方がなかった。心配して来てくれた会員は、そんな我々の行動に入ってくるのをためらったのか、安心したのか、いつの間にか居なくなっていた。痛さも含めてしばらく至福の時を過ごした。




 そして十年目の七月二十日金曜日、国民の休日、翌々日の二十二日は日曜日、土曜日には仕事に出なければならないけれど、久し振りに一日おきで馬と会い語り合うことが出来ると心待ちにしていた。二十日の昼前厩舎に顔を出すと、何時ものように寄ってきて私が出す手の匂いを嗅いだのち、鼻先を左右にムニッ、ムニッとして、二週間ぶりの挨拶を交わす。

「Hi! Croi.How are you?」
「Shake hand!」

 右前脚を上げる、それを受けて、鼻面をなぜる。装蹄したばかりと聞いていた通り、鉄が新しい。何ヶ月前からか、また歩きがおかしくなっていた。見ると爪の角度が寝ているので、立ててもらうように、お願いしておいたばかりだ。

「How is your legs?」

 見たところ調子が良さそうだ。とりあえず調馬索をしようと、無口を持ってくる。

「Down your head.Croi」

 いつものように無口が掛けやすくなるように、頭を下げる。

「Good boy. Croi. Good boy」

 つなぎ場に行き、ブラシをかけ、裏掘りをしていたらボロをした。調馬索用のリードに換え、馬場で歩かせたり走らせたりして見る。よさそうだ。

 二週間会っていなかったら、髭も伸びている。たてがみも、耳の毛も長くなっている。

「床屋をしようか」

 バリカンできれいにしてやると、男前になってきた。鞍を着け久し振りの外乗に出る。

 いつもの赤ツメ草の場所に行くと、ほとんどが、連日の暑さで夏枯れしていて、少しだけ残っている赤ツメ草を食べさせた。海に入るといつものように海水に口を入れてクチュクチュする。

少し汗ばむほどで帰る。洗い場で洗っていると、またボロをした。腸の具合も良いようだ。リンス入りシャンプーで、さっぱりと汗を流す。Croiはいい香りになり益々男前になる。明後日会うのを楽しみにして、その日は帰る。

「See you the day after tommorow! Croi」
「Bye,Bye!」

 

翌二十一日、仕事場にK社長より電話が入る。

「Leoが朝からちょっとおかしくて、喰いがなくてヨー、ボロが出なくて、軽い疝痛みたいなんだわサー」

 先生に診てもらうことを約束して、しばらく様子を見てもらうことにした。

「昨日きちんといいボロしていたのに」

 夕方、電話してみるとあまり芳しくないみたいだ。

「分かった、今夜行く」

 家に一旦帰り、支度をして、九十九里に向かって車を飛ばす。明日、乗るのを楽しみにしていたのに、何てことだ。これで死んじゃったら、昨日きれいにしたのが、死に化粧みたいじゃないか。

 九十九里に着くと、Croiは角馬場の隅に横になっていた。電燈を消してあるので、暗闇の中でもう死んでいる様に思えた。
 クラブに行くと、スタッフは今日一日の仕事の上にCroiの面倒を見て、疲れ切って、テレビをつけたまま仮眠していた。私の足音に気付いて挨拶してくれる。

「申し訳ない」

 スタッフと一緒に、無口を付け歩かせてみる、歩様はしっかりしている。走らせて見る、見事な走りだ、前脚の跛行などひとつもない。肛門に指を入れ、さらに手、腕を入れ腸内を探る。少しだけボロが出たが、浣腸したためかほとんど糞はない。

「もう一度、浣腸しましょう。下剤も飲ませます。もう少しで痛み止めが効かなくなるので、また、一本打たせてください」

 しかし、痛み止めだけは、もう少し待ってもらうことにした。痛さで自力回復しないかと考えたからだ。スタッフも必死に看病してくれる。Croiも必死に戦っている。砂の上に寝ころんで右、左、と横転する。

 ふと思いつき、再び立たせて引き綱を付け、月明かりの中を海まで歩く。いつものように海に入ったら、ボロをするんではないかと思ったからだ。ふと見上げると雲ひとつない満点の星だ。水平線にも星が輝いてる。これでCroiが元気なら、言うことなしのシチュエーションなのに。

 海に着き、長靴に水の入ってくるのも忘れて海の中を引く。

「尻尾が上がりました!」

 一緒に来てくれたスタッフが叫ぶ。

「今、少しボロしました!」
「本当か、Croi.Good boy 頑張れ!」
「出てくれ!」

 祈る気持ちだ。

 しかしそれだけだった。気丈にもCroiはしっかりとした足取りで角馬場まで帰ってきた。入った途端に横になった。

{バタン、バタン}

 痛そうだ。

 いつしか二十二日の朝になっている。スタッフのみんなも、今日がある。日曜日だ。いつもよりお客さんも来る。もうこれ以上無理する訳にはいかない。

「痛み止めを打って。そしてみんな休んで、お願いだから」

日曜日のことを考えて馬場を移し、厩舎も移した。厩舎の前に大型扇風機をつけてもらい、折りたたみのベッドを置き、日曜日一日一緒に過ごす。
 痛み止めが効いているのと、Croiの性格からか、彼は見事であった。その尊厳な姿に心を打たれた。私がついウトウトとしてしまうと、私の足に鼻を当てムニュムニュする。

{ダイジョウブカ?}と言うように。どちらが看病しているのか分からない。

 二十三日の夜も会いに行く。獣医の先生が来て診療してくださっていた。他の場所でやはり疝痛の馬を診てきたようだ。こんな夜まで大変なことだし、ありがたいことだ。腹に溜まったガスを、ホースを使って抜いているところだった。あまり芳しくはないが、少し抜けたようだ。

「とにかく、ガスがねー。ガスがたまると腸を圧迫して、ますます動かなくなるんですよ」

 お礼を言って、クラブハウスに戻り、心ばかりの栄養剤と少しの食事をしてもらいながら、話を聞く。

「アメリカでは疝痛だと、開腹手術をするんですってね?」
「そうなんですよ、結腸の辺りを開腹してかなりの成功を収めているようです」

 馬の腸は二十五メートル〜三十メートルある。その真ん中で詰まったら上から下剤を飲ませて、下から浣腸しても届かないようだ。日本でも手術は出来なくないんだけど、設備資金がかかって大変なようである。アメリカはその点、馬の数が違う。ビジネスとして成り立っているようだ。

 Croiもアメリカにいたら・・・。と、それは考えないことにしよう。

「我々獣医がやらなくては、いけないことなんですがね。もっと、勉強します」

 先生は申し訳なさそうにそう言って帰っていかれた。

「いい先生だ、ありがたいことだ」

 先生は初日、電気針での治療も試みて下さったようだ。光ファイバー等で腸内を隈なく覗き、切らずに治療できるような日が来ることを望む。だって糞詰まりなんだもん、情けない。

 先生を見送った後、私の希望どうりにスタッフは当番制にしてもらっていたので、Croiのところに行き、そのスタッフと、しばし馬の話等をする。

 ふと視線を感じてCroiを見ると、じっとこちらを見ている。目が離せなくなった。

 そのうちCroiの瞳から涙がツーと流れ出た。

「お別れか?」
「Do you want to say good―bye?」

 私の瞳もぼやけてしまった。

その時、ぼやけたCroiの顔と重なって、七十一歳で亡くなった父の顔が浮かんできた。そういえば、尊厳なところは似ている。

 父が亡くなる前に、私は事業を始めたばかりで、付いていてやることが、出来なかった。
 その分、一緒に働いていた弟に行ってもらい、父に付き添ってもらった。その弟の話によると。父は亡くなるまで、時々見舞いに行く我々家族の前では、元気に頑張っている姿を見せていたようだ。最後に私が見舞いに行った時、父は私の顔から目を離さなかった。暫らくすると、父の瞳から涙がツーと流れた。初めて見る父の泣き顔、お別れの合図だと思った。そして、亡くなる前夜、父は弟に、自分をベッドの上に座らせてくれと頼んだそうだ。父は東、南、西、北それぞれに向かって正座して、「ありがとうございました」とお礼を述べたと言う。後になって聞いて、なんと親父らしいと思った。

 馬に乗ったのも実は父との繋がりがあったからだ。父が馬に乗ったのは一度も見たことはないが、三度行った軍隊時代の写真を見ると、馬に乗った父親がいる。のんびりと水牛に乗っている写真もある。母の話だと、中学校の教師であった父は小中学校全校生の前で馬に乗って見せたという、様々な歩様を見せたようだ。そんなことが脳裏にこびりついていて馬に乗る機会を得た時、乗ってみようと思ったのだ。

「親父が生きている時に、もっと馬のことを聞いておけばよかった!」

 そう思ったのだが、馬に乗り始めてみるといつも父と一緒だった。

「こんな時、親父はどうしたんだろう?」とか、
「親父もこんな景色を見ていたんだろう」とか・・・・。

 それからの乗馬は親父に会いに行くような気分だった。

 そんな話もスタッフと交わした後、帰ることにした。奇跡が起こり、ガスが出て、ボロが出て、元気になったCroisson(WANPY LEO)をイメージして。

 車に乗って一人になると、Croiの流した涙のことが気になって仕方がなかった。

「お別れなのかな」

 一方で覚悟もしなければならない。

 二十四日は朝から仕事がしっかりと入っていて、車で走り回った。夕方電話が入り、

「あまり、芳しくない」

と言われた。何かあったら電話してくれるように頼んで、家に帰る。九十九里に行く準備をして横になると、テレビの前で寝てしまった。



 二十五日の朝方電話がありCroiが死んだという連絡が入った。二時十五分だったとのこと。すぐに車を出し駆けつけた。

 厩舎の中に、斜めに横たわり脚を伸ばした、わが師Croissonの躯はあった。顔に白いタオルがかけてあり、躯は黒くつややかに光っていた。静かにタオルをはずして顔をのぞくと、瞳は開いたままだった。覗いてみるが、瞳は動かない。

「お別れだ。 いろいろとありがとうございました。 いろいろなこと、一杯教えてもらいました。  師匠。 さようなら」

線香を焚き読経をして、社長、スタッフの皆さんにも焼香してもらった。

帰りの車の中で、一人になり読経すると、目頭が熱くなる。

 亡くなった親父に話しかけた。



「俺の師匠が、そちらに行くから、乗ってみてよ」

                                   終わり


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